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米20ドル札紙幣の肖像画 アンドリュー・ジャクソンのご紹介

米20ドル札紙幣の肖像画 アンドリュー・ジャクソンのご紹介

世界の経済大国アメリカへお仕事、バカンス、またはリゾート旅行などを楽しむ予定の方へ。

アメリカ紙幣でもっともよく使う、20ドル札の肖像画人物、アンドリュー・ジャクソンについてご存知でしょうか? またその自宅が歴史的建造物になっていることもご存知でしょうか?

本記事では、世界を旅する5つ星Magazineの読者さまに、偉大なる人物、アンドリュー・ジャクソン氏を知る上での基本と、掘り下げた情報をご紹介いたします。

アンドリュー・ジャクソンの生い立ち

  • 生誕:1767年3月15日
  • 死没:1845年6月8日(78歳)
  • 出生地:アメリカ合衆国 テネシー州 ナッシュビル

1767年~

 

1767年~

アンドリュー・ジャクソンは、1767年3月15日テネーシー州のナッシュビルにて、スコットランド系移民の両親から生まれました。

両親は、アイルランドの地から結婚の機にして土地を売ってアメリカに移住したそうです。父親はジャクソンが生まれる3週間前に事故死しています。両親が残した家は、「アンドリュー・ジャクソン・センター」として、現在、国指定の記念建造物に指定され公開されています。

アンドリュー・ ジャクソンは田舎の育ちとなり決して十分な教育が受けられたとは言えなかったものの、勉学の守備範囲は広く、またアメリカ独立戦争時には、13歳で大陸会議軍に加わっています。

その中で、アンドリュー・ジャクソンは、兄弟とともにイギリス軍によって囚人として拘留され餓死する寸前であったことが伝えられています。

アンドリュー・ジャクソンがイギリス軍将校のブーツを片付けるのを拒否した際に、将校は彼を刀で切りつけ、左手と頭部には深い傷跡が残り、これはやがて、イギリス軍への深い憎悪を抱く動機ともなってしまいました。

投獄されている期間の母親は、2人の釈放へと務めるが、兄弟のロバートは容体が悪化し、釈放の数日後に命を落としてしまいました。母親はチャールストン港に停泊する船で捕虜の看護を申し出ますが、そこで発生したコレラが原因で死亡してしまいます。

アンドリュー・ジャクソンの肉親は、戦争という悲しみの中で、兄弟と親を亡くし、イギリス軍に激しい憎しみと非難する要諦へと変貌していってしまうのです。

1781年~

1781年、14歳のアンドリュー・ジャクソンは鞍職人の店で働き、その後ソールズベリーで法律を学びました。法律知識は乏しかったものの、辺境地での弁護士としては十分な働きをみせ、混沌とした開拓時代の無秩序の中で、法律の名の元に、弁護士として頭角を現していきます。

1788年にアンドリュー・ジャクソンは、ウェスタン・ディストリクトの法務官に任用され、1791年には、オハイオ川南部領政府の法務官職を任命されます。

1796年、アンドリュー・ジャクソンは、テネシー州の下院議員に選出され、1797年には民主共和党から上院議員として選出されるも、1年で辞任しています。

アンドリュー・ジャクソンは、奴隷主、農園主および商人として成功していきます。

デヴィッドソン郡、ナッシュビルの近くにハーミテージ農園を購入し、農園は1,050エーカー (425 ha)まで発展していきます。その主な作物は綿花で、150名の黒人奴隷を所有しています。生涯最大で300名の黒人(混血も含む)奴隷を所有し、チカソー族国家と土地の販売交渉を行い、テネシー西部の土地投機を行います。

やがてメンフィス設立を行った3名の投資家の内の1人にもなっていきます。

 

第7代アメリカ合衆国大統領へ

戦争を経験したアンドリュー・ジャクソンの大統領選挙は、英雄として支持を集めていました。

大統領としての方針は、庶民を味方におき、ホワイトハウスの前にチーズを置き民衆に分け与え、ホワイトハウス見学ツアーを企画し、大統領就任祝賀パーティーに「民衆」の行動に収拾がつかなくなる一幕もあったそうです。

インディアンと黒人に対する人種差別は強くあり「インディアン強制移住法」を制定し、これは違憲であったようですが、インディアンを遠隔地の保留地に強制隔離しました。それは、テネシー州のプランテーションで100人以上の黒人奴隷を所有していた姿に酷使していたようです。

金融面においては、政府機関の第二合衆国銀行に対して、州独自財政を奪い庶民の利益に沿わないものと敵視し、自らの政治生命をかけて廃止を目指していきます。

連邦議会が認めた第二合衆国銀行の特許更新に拒否権を発動し、これも違憲ではと論争がおきますが、第二連邦銀行は連邦の保証を失い、窮地に追いやられ、その後のアンドリュー・ジャクソンの政策によって破産に追い込まれます。

銀行を支配するのは、世界を牛耳る世界のロイヤルファミリーという陰謀説がありますが、やはりアンドリュー・ジャクソンは第二合衆国銀行を敵視していたためか、暗殺計画がありました。しかし暗殺計画が未遂に終わり、経済政策も進んでいきます。

アンドリュー・ジャクソンの経済政策は確固たる信念があるものの、その歪みは起こり、大統領権限の拡大のもたらす金融恐慌を引き起こす要因をつくっていきます。

アメリカ合衆国の経済は、南部・西部・東部でそれぞれの州の急速な発展が進む中、増大する資金需要を賄うためには、数多くの州銀行が設立される必要がありましたが、当時のウォール街はその場としてまだ不十分だったようです。

この当時、国際金融資本家との間に、通貨発行権の利権をめぐる争いも勃発していたようで、州を、ひいてはアメリカという国の発展に重きをおくアンドリュー・ジャクソンと、中央銀行の存在のあり方をめぐる論争が焦点となっている、アメリカ合衆国第7代大統領だったのです。

 

オススメする動画と名言

アンドリュー・ジャクソンは、人種差別をしているとされながらも、金融面においては庶民の味方で、国際金融資本家の敵であったことがわかります。

そんなアンドリュー・ジャクソンを詳しく説いている動画を探してみました。三権分立の話とも合わせて聞ける面白い動画となっています。

国の財政は国民の血税から生まれていくもの。しかし、国際金融のはじまっていた時代に生きるアンドリュー・ジャクソンの戦いは、国民への思いと、国際金融と、軍事利用と、自由と独立の狭間で、様々な脅威に大きく揺れていたようですね。

アメリカ合衆国を、他国に大きく借金をしないで繁栄させていくかは、どうやら、このアンドリュー・ジャクソンが大統領の任期であった、1800年ごろに1つの大きなターニングポイントを迎えていたようです。

 

最後に

アンドリュー・ジャクソンの国際金融問題の取り組みの話は、月給300万円時代の現代にの庶民には、とても次元の違う話にも思えます。

奴隷を嫌うものの、庶民を思う気持ちがあったことは確かな大統領。アンドリュー・ジャクソンの肖像画である20ドル札を、何か、純金の地金や、確固たる資産へと投資していこうと考えるのは、筆者だけでしょうか? 日本では、銀座田中が、純金定期などのサービスをしていますね。

以上、
「米20ドル札紙幣の肖像画 アンドリュー・ジャクソンのご紹介」でした。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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