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旧1000円札紙幣肖像画人物 夏目漱石の足跡と人物像

旧1000円札紙幣肖像画人物 夏目漱石の足跡と人物像

いまでは大変貴重な、旧千円札をまだお持ちでしょうか?

数々の名作を世に送り出し、日本を代表する小説家である夏目漱石が肖像画としてなっておりますが、夏目漱石に関しては詳しくご存知でしょうか?

本記事では、お金の大切さを忘れない、5つ星Magazineの読者さまへ、旧1000円札の肖彼の功績、人生をわかりやすくご紹介します。

夏目漱石の生い立ち

  • 生誕:1867年2月9日(慶応3年1月5日)
  • 没日:1916年12月9日(大正5年)
  • 出生地:江戸牛込馬場下横町(現:新宿区喜久井町)

夏目漱石の本名は夏目金之助といい、夏目小兵衛直克、千枝の五男として出生。父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持ち、生活も豊かでした。

当時は、明治維新後の混乱期で、生家は名主として没落しつつあったためか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されてしまいます。

しかし、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したのです。

翌年、再び養子に出され、7歳の時に養母とともに一時生家に戻ります。その後、養父母の離婚により、9歳の時に生家に戻るのですが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れてしまいます。

このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていたのです。

家庭の問題が頻出する中、漱石は学業に非常に優れており、第一高等中学校(東京大学教養学部)に入学。

虫垂炎を患い、一度落第を経験するものの、ほとんどの教科において首席であり、特に英語がずば抜けて優れていました。

 

1889年(明治22年)

同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会います。

子規が手がけた文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、友情がスタート。このときに初めて「漱石」という号を使いました。

漱石の名は、唐代の『晋書』の故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強く、変わり者であることの例えとして使われました。

漱石は以降、俳句の世界でその才能を発揮していきます。

1890年(明治23年)

23歳のとき、東京帝国大学英文学科へ入学。ここでも漱石は秀才ぶりを発揮し、特待生に選ばれます。

教授をしていたJ.M.ディクソンは漱石の才能を見込み、『方丈記』の英訳を依頼。やがて明治26年(1893)、26歳のとき同大学同学科を卒業します。

1895年(明治28年)

漱石は大学卒業後、東京高等師範学校の英語嘱託を経て、松山の愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任。松山は子規の故郷でもあり、ちょうどこのころ静養のため帰郷していた子規と共に俳句に精進します。

また、同時期に、貴族院書記官長中根重一の長女 中根鏡子(なかねきょうこ) との縁談の話が持ち上がり、彼女と見合いをして婚約。そして翌年、熊本県の第五高等学校講師として赴任し、結婚しました。

しかし、鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しく、白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかったようです。

1900年(明治33年)

33歳のとき、漱石は文部省から英文学研究のため英国留学を命じられ、渡英。初期の頃は、勤勉に励んでいたのですが、じきに英文学研究への違和感を感じ始め、神経衰弱に陥ってしまいました。

下宿先を何度も変え、 池田菊苗(いけだきくなえ) という化学者と出会ったことで新たな刺激を受け、下宿に一人こもりきりで研究に没頭し始めます。これを耳にした文部省は、急遽、帰国を命じ、1903年に漱石は帰国します。

1903年(明治36年)

帰国した同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になります。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉でした。

東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執りましたが、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こってしまいます。

また、当時の一高での受け持ちの生徒が、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺してしまいました。多くの不遇により、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居してしまいます。しかし翌年、1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務めました。

その後、漱石がロンドン留学中の1902年に病死していた正岡子規の遺志を継ぎ『ホトトギス』を運営していた高浜虚子は、漱石に小説を書くように勧めます。

当時、患っていた神経衰弱を緩和するためという意味合いも含まれていたようです。

作家としてのキャリアは、ここから始まりました。

夏目漱石は、優れた才能を持ちながら、何度も「神経衰弱」に陥るなど、非常に繊細な心の持ち主でした。

神経衰弱とは精神疾患のひとつです。具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、イライラ感、消化不良などがあり、精神的消耗により発生することが多いようです。※現在この病名は使われていません。

 

前期三部作

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/74/Ich_der_Kater.jpg

先に触れたように、漱石は高浜虚子の勧めで、精神衰弱を和らげるために処女作となる『吾輩は猫である』を執筆(1905年)。

初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博しました。それから、数々の作品を世に産み出した漱石ですが、前期と後期に分けるとそれぞれ3つの代表作があります。

  • 三四郎
  • それから

「三四郎」

地方の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物、すべてが目新しい世界で、自由気儘な都会の女性美禰子に出会い、強く惹かれてゆく…。
青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いた作品です。

「それから」

主人公の代助は、三十歳を過ぎても親からの仕送りを受けて優雅に暮らしている知識人「高等遊民」。かつて親友に譲った三千代と再会して、人妻である彼女との愛を貫く決心をする。愛を代償に社会から葬られるさまを描いています。社会の掟に背いて友人の妻に恋慕をよせる主人公の苦悶、三角関係を通して、分裂と破綻を約束された愛について深く追求した作品です。

「門」

野中宗助は親友安井の妻だったお米を奪ってしまい、その後二人の結婚生活は崖下の家でひっそりと続いていました。弟の小六を引き取り共に暮らすことになるが、気苦労の多い弟との同居などで、御米は寝込んでしまいます。大事にはならなかったが、やがて安井が、大家の坂井のもとを訪れることを聞きます。安井が訪ねてくることを知った宗助は苦しみ、救いを求め、参禅に出かけるが門は開けてもらえず救済は得られません。
結局、安井と相対することなく、小六は坂井の書生になることが決まりました。お米は春が来たことを喜びますが、宗助はじきに冬になると答えます。

この作品は、宗助自身の愛へのエゴイズム、その行き着く果ての暗さを描いています。漱石は『門』を執筆中に胃潰瘍で入院してしまいます。療養のため伊豆の修善寺に出かけて転地療養しますが、そこで胃疾患になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥りました。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件です。この時の一時的な「死」の体験が、その後の作品に影響を与えることとなったのです。

 

後期三部作

続いて、後期三部作です。

生死の境を彷徨うほどの大病を経て、人の内面を深く掘り下げ、解決しがたい苦悩を描いた色合いが強い印象です。

  • 彼岸過迄
  • 行人
  • こころ

「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」

人間の心の奥の苦悩と愛の不毛を描いた作品。主人公の川田敬太郎が聞き手としてさまざまな登場人物を引き出す6編の短編と、その「結末」から成り立っています。長編小説の新しい手法の先駆と位置づけられています。個々が抱えるさまざまな人間の内面の悩みを、出口が見えないままに描き、考えさせられることでしょう。

「行人(こうじん)」

「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の4つの編から成り立っています。自分本位に行動する男とその妻との間にできる溝を通じて、近代知識人の苦悩を描いた作品です。
「他の心」をつかめなくなった人間の寂寞とした姿を追究して、『こころ』へとつながっていくのです。

「こころ」

恋人を得るために親友を裏切り、自殺へと追いこんだ。その過去の罪悪感に苦しみ、自らもまた死を選ぶ「先生」…。愛と偽善、誠実の意味を追究した傑作で、夏目漱石の代表作の一つでもあります。後期三部作を発表した後、漱石は自伝的要素の強い『道草(みちくさ)』を発表しました。しかし、これらの作品の執筆期間中にも漱石の病は悪化し、胃潰瘍以外にも、痔や神経衰弱に悩まされ、糖尿病にもおかされます。そして、1916年(大正5年)49歳のとき、『明暗(めいあん)』の執筆途中に胃潰瘍が再発。内出血を起こし、その短い生涯を閉じたのです。

 

夏目漱石の思想

数多の作品を産み出してきた漱石だが、作品の中で見受けらる思想を探っていくと2つのキーワードが現れます。

  • 自己本位
  • 則天去私(そくてんきょし)

自己本位
「自己本位」の一般的な意味としては、判断や行動の基準を自己に置く「自己中心主義」と違いはないと思います。漱石のいう「自己本位」も、ほぼ同じ意味と考えてよいでしょう。ただし漱石自身、他人にも自己があり、他人は他人でまたその自己を本位にしてよい、と認めているます。彼の「自己本位」は自身の「自己」だけでなく、他者の「自己」もまた尊重する思想へと時間をかけて鍛えあげられたものであるということが言えます。

則天去私(そくてんきょし)
漱石自身の造語で、晩年に文学・人生の理想とした境地。自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとしたものです。自分の感情や欲望などにこだわらず、そこからいったん距離を置いて、自分を含めた世界をより冷静に客観的に眺める、というような意味でしょうか。この姿勢もまた、単なる精神衛生上の態度といったものから、「自己」の認識を深める方法としてのそれへと進化していくことになります。

ーー

自分を大切にするという「自己本位」、自分を捨て去るという「則天去私」。この二つの考えは、ぱっと見ると正反対の方向に見えます。たとえば、自己を中心に考えるべきというのは、西洋的な価値観に近く、自分というものから離れてみようという考え方は、東洋的な智恵のようだ、とも言えます。しかし、この二つのどちらも、漱石が大事にしていた考えなのです。

 

おすすめ動画

ここまで大変長文になりました。

言葉で伝える難しさを感じ、ここで一息、夏目漱石を紹介している動画をご紹介します。

その生涯が、後世に伝えられる夏目漱石の芯の部分は、もちろん彼が残した書物をおいて他にありませんが、現代に作られている動画もまた面白いものがありますよね。

 

最後に…

ここまでの長文をお読み下さり、ありがとうございます。

日本を代表する文豪である夏目漱石。今回取り上げた前、後期三部作だけでなく、名作と呼ばれる作品は多数あります。

また、彼は度々精神を病み、苦しみながら執筆を続けていました。おそらく、繊細な感情の持ち主だったのでしょう。

さらに、ずば抜けた知能、深い洞察力も兼ね備えていたからこそ深く苦悩し、沢山の作品を常に高いレベルで世に放つことができたのでしょう。

改めて、彼の作品を読み返し、偉大な才能に触れてみたいと思います。

以上、
旧1000円札紙幣肖像画人物 夏目漱石の足跡と人物像」でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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