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その癒し、5つ星級。人生を変える会員制リゾート

「目指す場所にむかって一歩ずつ前に進みたい」奥野史子さん(前編)

「目指す場所にむかって一歩ずつ前に進みたい」奥野史子さん(前編)

20歳でバルセロナオリンピックのメダリストとなり、その演技で人々を魅了した奥野史子さん。引退後は日本人として初めてシルク・ドゥ・ソレイユに出演。現在はスポーツコメンテーターとしてテレビやラジオで活躍しています。元トップアスリートならではのシャープなコメントが人気を呼んでいる奥野さんに、これまでのこと、そして未来の夢などを伺いました。前後編に分けて紹介します。

奥野 史子(おくのふみこ)プロフィール

同志社大学大学院修了。1992年、同志社大2年の時に、バルセロナ五輪シンクロナイズドスイミング(現:アーティスティックスイミング)ソロ、デュエットでそれぞれ銅メダルを獲得。2000年より200212月までシルク・ドゥ・ソレイユに所属。日本人として初めてラスベガスで最高峰の「O」(オー)に出演を果たす。2002年、当時陸上100メートル日本代表選手、朝原宣治氏と結婚。現在は三児の母。

スポーツコメンテーターとしてメディアで活躍するとともに、京都市教育委員と日本水泳連盟・アスリート委員して社会貢献にも務めている。

幼い頃から水泳に親しみ、姉たちのあとを追ってシンクロへ

 ――シンクロナイズドスイミングを始められたきっかけを教えてください。

私は3姉妹の末っ子なのですが、姉たちが京都踏水会でシンクロをやっていたので、自然な流れで始めました。京都踏水会は、1896年(明治29年)に創設された水泳教室で、一般の水泳の他に、日本泳法、競泳、シンクロなどがあるんです。私は4歳から水泳を習っていて、小1から、当時はめずらしかったシンクロに転向しました。競泳のようにスピードを競うのではなく、水中で踊るのが楽しく、できなかった技ができるようになることが面白かったですね。お化粧をしたり、きれいなウエアを着たり、女子力が高めなのも幼心にうれしいものでした。

小学4年生のとき

――有名な井村雅代コーチの指導を受けられたんですね。

井村先生と出会って、私のシンクロへの向き合い方は大きく変わりました。シンクロは1984年のロサンゼルスオリンピックで正式競技になり、日本は銅メダルをとりました。その全日本のコーチだった井村雅代先生が京都踏水会に教えに来られたんです。競技人口が少なかったので、わりとすぐに国内で上位を狙うことはできました。でも、先生は世界を見ている人で、先生と出会って目指すものの高さがぐんと上がったのです。

全国ジュニアオリンピック12歳以下の部に出たときに優勝してから、3年連続で優勝して海外遠征でも優勝しました。そういう成績が残せたのも、練習のときに先生の熱心さと本気度がビシビシと伝わってくるからなんです。たとえ相手が子どもでも選手なら高いレベルを求める、それに応えようと頑張れた、まさにヒナがかえろうとするそのタイミングで手を貸してくれる、啐啄同時です。先生の指導は具体的で、手はここ、足をこっちへ、お腹に力を入れて、というように指示されて、そのとおりにやるとできてしまうんです、難しい技が。求められるレベルは高くて、指導では怖い面もあったのですが、愛を感じられました。目標とするポイントが同じだから、叱られても納得できたんです。先生についていけばトップになれる、そう信じられる存在でした。

初めての海外でアスリートとしての自覚が生まれた

1985年スペイン大会

――中学生のときに世界大会に出場されたんですね

はい、初めてJapanのユニフォームを着て、初めて飛行機に乗って海外に行ったのが中2のときでした。気負いもなくて、海外に行けるのがうれしくて、初めて見るスペインの町並み、外国人、出会うものすべてにわくわくしていました。大事な大会を前にしながら浮き足立っている私に、先生は「周りを見なくていい、私だけを見なさい」ときっぱりと言われました。

先生は、たくさんの言葉で注意はしないんです。そうされたらテンパってしまうだけだとわかっておられるんですね。コレだということを簡単な言葉で的確に指示をしてくれる。だから私も気持ちを切り替えることができました。

――結果、ソロ、デュエット、両方で優勝されました。

このときに、集中するとはどういうことかというのを、初めて体感しました。私は周りのいろんなことが気になるタチで、細かいことまで見てしまうんです。練習の時だと、周りの人を見て何かしら吸収することができますが、試合会場で周りに気をとられることはよくありません。だから先生だけを見ることが必要だったんですね。

強くなる人、成績を残せる人には素直さが必要だとよく言われます。私も信頼する先生から言われたことだから、しっかりと守りました。自分の中に信じるものというか、軸をもてたことがよかったのだと思います。

大学生のときにバルセロナオリンピックで銅メダル

――大学時代はどうでしたか?

同志社大学に入学してからも、朝から夜遅くまでシンクロの練習をしていました。大学へ行くのは週に23日で、そのときに集中的に勉強をして、あとはほぼシンクロです。友達と他愛のない話ができる大学での時間とシンクロの厳しい練習、メリハリのある日々で、どちらも大切なものでした。

――そしてバルセロナオリンピックへ

1992年、バルセロナオリンピックで日本チームは活躍しました。水泳では岩崎恭子選手が平泳ぎで金、柔道では78kg以下級で吉田秀彦選手、71kg以下級で古賀稔彦選手が金をとりました。現地の選手たちの士気は高かったですね。
私自身プレッシャーというのは感じておらず、初めて海外に出たときと同じように、井村先生を信頼して調整していました。先生も強気ですから、チーム全体が「ぜったいにメダルをとる」という思いでしたね。

実はデュエットを誰が演じるかが決まったのは、当日。それも競技が始まる3時間前でした。最善の状態をキープしても当日出られないかもしれない。でも絶対に出たいという思いでいました。選ばれて出場できることになったとき、身支度をしながら初めて責任の重さを実感しました。代表に選ばれたからには他国に負けるわけにはいかない。そんな思いでした。

――デュエットとソロの両方で銅メダルをとられました。

メダルをとってほっとしました。オリンピックでメダルをとるのはすごいことなんだと実感したのは、帰国してからですね。急に周りに人が増えた感じです。知らないような親戚や友達が集まってきて、親しげに接してこられるんです(笑)。でも、私自身の気持ちは浮足立つことなく、また練習に励む日々でした。

オリンピックの翌年、大きな挫折が自分を変えた

――翌93年にはワールドカップがありました。

スイスのローザンヌで開催されたワールドカップに、ソロとチームで出場しました。ところがこの試合で、ソロ、チームともに4位に落ちてしまって……。それまで連続でメダルをとってきたのに、メダルに手が届かなかったことで、選手だけでなくコーチや関係者も大きなショックを受けました。

前年のバルセロナオリンピックまで、技術点重視で、今のようなテーマや表現方法などは漠然としたイメージで演技をしていました。1993年からは、テーマと演技、つまり芸術性が重視されるようになったのです。たしかに日本チームは芸術性を出し切れていなかった。期待されていたにもかかわらずメダルがとれなかった、原因は明らかでした。

1位アメリカ、2位カナダ、3位ロシアに負けました。この頃からロシアが強くなり、人がジャッジする競技で表彰台から落ちるということは、とても大きいことです。次の大会では「メダルを落とした日本」と、審査員に先入観を持たれてしまうから。挽回するには、今まで誰もやっていないことをやらないといけない。それが何なのか、模索する日々でした。

後編へつづく

 

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