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陸上界のレジェンド登場! 朝原宣治さんインタビュー(前編)

陸上界のレジェンド登場! 朝原宣治さんインタビュー(前編)

今回ご登場いただくのは、陸上短距離界のレジェンド、朝原宣治さん。

2008年の北京五輪でアンカーを務め、見事3位でゴール。バトンが宙を舞ったその瞬間を思い出す方も多いのではないでしょうか。インタビュー前編では、世界が歓喜したその舞台裏についてお話いただきました。

朝原宣治 プロフィール

大阪ガス株式会社 地域共創部門 近畿圏部 地域活力創造チーム マネジャー

2008年北京五輪4×100mリレー銀メダリスト

1972年、兵庫県神戸市出身。1993年、同志社大学3年生の時、国体100m1019の日本記録を樹立。以降、1996年には10141997年には1008と日本人で初めて101台、100台を記録し日本記録を3回更新。オリンピックには4回連続出場、世界選手権には6回出場。最高記録は1002

陸上競技クラブ「NOBY T&F CLUB」の主宰者、一般社団法人アスリートネットワークの副理事長として「スポーツを通じた健康力の高いまちづくり」活動を推進。

陸上との出会い。伝説のリレーの裏側は?

――朝原さんと陸上の出会いは、いつだったんでしょうか?

陸上をはじめたのは高校生の時です。中学生の時までハンドボールをやっていたんですが、それをやめて何か新しいことをしたいと思っていた時に、陸上をしていたクラスメートに誘われて。走幅跳からはじめました。

――大学生の時には、100メートルの日本記録を出されましたね。その頃には走幅跳から100mに移行されていたんですか?

まだ走幅跳をメインでやっていたんですが、100mも良い記録が出ていて。記録が伸びている頃にちょうど国体に出場できることになって、日本記録を出すことができました。それが大学3年生の時です。その後、走幅跳の踏み切り足を怪我したこともあり、100mに専念することに決めました。

――朝原さんは、1996年のアトランタオリンピックから4大会連続でオリンピックに出場されています。やはり、一番印象に残っているのは、2008年北京オリンピック。4×100mリレーのアンカーをつとめ、3位でゴール。直後にバトンを放り投げた姿に日本中が感動しました。4度のオリンピックで順調に順位をあげてきましたが、北京では手応えがあったのでしょうか?

手応えがあっても、さらにそれより海外が上をいくというのがずっと繰り返されていたので。なかなかメダルをとるのは難しいな、という感覚でした。手応えはあるけどまだまだだし、とれないのかなという思いもありました。
リレーに関して言うと、メンバーが揃わないといけないですし、運もあります。世界の国のチームも年によってメンバーが揃う年とそうでない年があるので、それを待つしかないという感じではありました。
そういう意味では、2008年北京オリンピックの日本チームは最高のメンバーでした。まさに海外でも戦えるくらいのチームです。初めてメダルが手にかかるという位置にいて、プレッシャーもありました。

――そのプレッシャーはどう乗り越えましたか?

乗り越えるしかしょうがない。というのが正直なところです。日本男子のトラック種目でのメダルは歴史上初めてでしたから。初めてその瞬間に向かっていくという状況で、さらに僕自身はアンカーですごく責任もある。乗り越えるというか、受け入れないとしょうがない。いろんな不安とか自信とかが入り混じりながら、予選から決勝まで過ごしました。
バトンを放り投げたあの瞬間は、それまで感じていたプレッシャーや期待が爆発した瞬間でしたね。

実は引退するつもりだった。

――2008年の北京オリンピックの前年2007年の世界陸上で、引退を考えていたそうですね?

年齢的にも最後かなと。2007年の世界陸上の開催地が日本だったんですね。自国開催で出場できるのは最後のチャンス。しかも私の地元の関西で開催されることもあり、それで辞めていくのが納得できる形ではないかと。
そう考えていたんですが、結局、リレーで5位になってアジア記録を出したんです。これでメダルをとっていたら本当に辞めていたかもしれません。

――その時の悔しさが現役引退を引き止めたんでしょうか?

悔しさ、というか、あと1年やったらいけるんじゃないかと思いました。周りの人にも相談して、「あと1年だし頑張れ」って言う人がほとんどで。ただ僕自身は、なかなか気持ちが動かなくて、いろんな人の意見を参考にしつつも、家族と旅行したりしてしばらく陸上のことを考えずに過ごしました。そうするうちに、やっぱり続けたほうが良いなと自分から思えたんです。

――北京オリンピック後は、気持ちよく引退しようと?

そうですね。それ以上はもういいかなと納得して辞めました。

――銅メダルを獲得後の10年後、2018年には優勝したジャマイカの選手にドーピングが発覚し失格が確定。日本が銀メダルに繰り上がりました。

本来はあってはならないこと。僕たちにとっては銅メダルを獲った記憶が真実なので。
それに、僕らは繰り上がっても変わらずメダリストですが、4位だったブラジルチームは10年間、メダルを逃したという事実の中で生きてきているんですから。人生が変わりますよね。

ただ、すごくレアなケースだったので、今は面白い経験だと思っています。
銀メダルの授与式もあったんですが、10年間持っていた銅メダルに愛着もありましたし、いろんな人に触ってもらっていたので、汚れとか大丈夫かな?と心配していました。逆に僕たちには、トリニダード・トバゴの選手が10年間持っていた銀メダルを受け取るわけですし、どんなメダルがくるんだろうと(笑)。でも授与式の当日、箱を開けてみたら、メダルも紐もピカピカで。ほぼ新品で受け取れてよかった〜とホッとしました。

レジェンドと呼ばれて。

――陸上界のレジェンドとも呼ばれています。そう呼ばれるお気持ちはいかがですか?

そうですね。陸上に関していうと、これまでの選手があまり踏み込んでなかった領域に入っていると思うので、そういう意味ではレジェンドなんでしょうか。でもそのあとの若い選手たちがすごく今活躍していて、リレーの記録なんかも北京のレベルとはまったく別次元でやっていたりします。それはすごく嬉しいです。なかなか活躍できないとされていた陸上の世界に挑戦してよかったなと思います。

――今の若手で、注目なのは?

強そうなのは、サニブラウン選手でしょうか。2020年のオリンピックが延期になって、他の選手は練習を継続しながら試合にも出て、2021年のオリンピックに向けて調子をあげていっているんですが、サニブラウン選手は完全に試合をやめちゃってるんです。それだけ自信があるのか、どうなのか。おそらくコーチと話し合ってのことだと思うのですが。そういう思い切ったことをできるのは結構大きいですね。
他にも、桐生選手やケンブリッジ選手も楽しみですね。桐生選手は高校生の時から強くて、ずっと一線できて、今ピークだと思います。ケンブリッジ選手も復活しましたしね。

――ご自身もずっと長く一線で活躍されました。原動力は何だったのでしょうか?

怪我をして途中でリセットする時があったのが大きかったですね。シドニーの頃なので、27〜28歳くらいの時。その時に一度いろんな記録や順位を無くしてしまって、再出発したという感覚があります。
あとは、上手に手を抜いている年もあるんですよ(笑)。そうしないともたないので。毎年ずっと一生懸命に向かっていくのではなく、うまく休みをとれていました。意識してやっていたというより、結果そうなっていたんじゃないかと思います。

(後編)へつづく

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