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奥野史子さん「目指す場所にむかって一歩ずつ前に進みたい」(後編)

奥野史子さん「目指す場所にむかって一歩ずつ前に進みたい」(後編)

20歳でバルセロナオリンピックで銅メダルに輝いた奥野史子さん。数々の大会で成績を残し、引退後は日本人として初めてシルク・ドゥ・ソレイユに出演。現在はスポーツコメンテーターとしてテレビやラジオで活躍しています。前編ではオリンピックでの輝かしい成績、そしてワールドカップでの挫折などを伺いました。さらに後編では、その後のことを深く伺います。

奥野 史子(おくのふみこ)プロフィール

同志社大学大学院修了。1992年、同志社大2年の時に、バルセロナ五輪シンクロナイズドスイミング(現:アーティスティックスイミング)ソロ、デュエットでそれぞれ銅メダルを獲得。2000年より200212月までシルク・ドゥ・ソレイユに所属。日本人として初めてラスベガスで最高峰の「O」(オー)に出演を果たす。2002年、当時陸上100メートル日本代表選手、朝原宣治氏と結婚。現在は三児の母。

スポーツコメンテーターとしてメディアで活躍。京都市教育委員と日本水泳連盟・アスリート委員して、社会貢献にも務めている。

誰もやらなかった表現方法で世界を魅了 

――メダルを逃したワールドカップ。そこから抜け出すきっかけは?

ジャズダンスを習っていた石崎共美先生です。石崎先生は、元OSK大阪松竹歌劇団のトップとして活躍されたかたで、それまで何度も「シンクロはなぜいつも笑顔なの?表現するスポーツなのに喜怒哀楽はないの?」と問いかけられていました。
笑うのがシンクロの常識だと思っていた私は聞き流していたのですが、負けたときにその言葉がすとんと自分の深奥に落ちたんです。そして、怒り、悲しみ、情念を表現してみようと決めました。

石崎先生が考えてくださったテーマは「女の情念」。タイトルは「昇華~夜叉の舞」です。笑顔ではなく、観客をにらみつける目線、流れるように計算された演技などは、それまでのシンクロには全くなかったものです。国内の予選会で初めて演じた時、会場が静まり返りました。「どうしたの……」というとまどいの雰囲気で、点数も割れた。でも私たちにはあとがない、自分たちが求めるシンクロはこれだ、と思って自信をもって突き進んでいきました。

――海外ではどうだったのでしょうか。

世界で初めて演じたとき、審査員が驚いていました。でもヨーロッパでは思っていた以上に評価が高かったです。「日本チームが変わった演技をする」と広まって、行く国ごとに注目度が上がり、点数も上がっていきました。1994年、ローマの世界選手権では、ソロ初となる芸術点オール10点満点で銀メダルをとることができました。

人は1度落ちないと本気になれないものかもしれません。それまでも本気のつもりでしたが、挫折を味わって、もう一度トップに立ちたいと真剣に思いました。オリンピックでメダルをとったときに周りに集まってきた人たちは、負けたとたんにすっと消えて、世の中ってそういうもんだと学びました。アスリートは勝たないといけないんです。負けた経験が力になりました。

熱い決意とともに挑戦を続けていく

――表現力を身につけるのは難しいことだと思います。

簡単ではありませんでしたが、技術的なことや感情をどう表現するかなど、1からやりなおしました。どろどろした部分をどう表現するかは、自分の中の夜叉っぽい部分をイメージしたり、能や狂言を観たりもしました。能面は演者がほんの少し角度を変えるだけで違う表情に見えます。でも、形だけ小手先だけでやっても伝わらないんです。内面から出てくるものを、顔や体にどう表現するのかというトレーニングをしました。

私は京都の二条城の近くで生まれ育って、家業が呉服屋なので、古いしきたりが身近にありました。京都では顔に出さないのが美徳とされています。京都の人はよそよそしいと言われることがありますが、それは相手との距離感なんです。いろんな人がやってくる都で、相手がどこのどんな人かわからない状況から自分たちの暮らしを守る、ということが今も受け継がれているのだと思います。だから感情を現すということも挑戦でした。

技術面でも初めてのことが続きました。石崎先生はダンスのように自由自在に体を動かす振り付けを入れてこられます。それを水中でできるかというと、できないこともある。でも、そこをやらないと新しいものはできない、と考えました。作るプロセスも今までのシンクロとは違ったので、他の業界の人の意見を聞くことは大事だと知りました。

――早い引退でしたが、後悔はなかったですか?

22歳でした。当時はやりきった感があって、悔いはないと思っていました。でも、やめてすぐに日本選手権を見に行ったとき、自分の方ができると思ってしまった。スポーツコメンテーターとして仕事を始めたものの、正直、悶々としていました。

メディアに出るたびに言葉で表現することの難しさを痛感し、伝える力のなさに愕然としていました。たぶん1年くらいはシンクロのトップだったというプライドがあって、自分をよく見てもらいたい、よく映りたいと思っていたんです。新しい環境の中でもがくうちに気付いたのは、シンクロと同じだということ。はじめは足すら上がらなかったのが、一つずつできるようになりました。自分が今どういう実力なのか、現状をしっかり知らないといけないと気づいたのです。それから、周りの人に積極的に質問するようになりました。テレビの現場はプロの集まりですから、その分野のスペシャリストに質問すると、皆さん丁寧に教えてくださる。テレビを見てくれている身内の忌憚のない意見にも耳を傾けました。

日本人初のシルク・ドゥ・ソレイユ出演

――活躍の場をシルク・ドゥ・ソレイユに移されたきかっけを教えてください。

コメンテーターだった1998年に夏休みをとってラスベガスに遊びに行ったんです。オリンピックでメダルを争った選手が出演していたシルク・ドゥ・ソレイユを見ようと軽い気持ちで。そのときの演目「O(オー)」を見たとき、感動で涙があふれて「ここだ!」と思ったのです。以前一緒に泳いでいたフランス人メンバーを出待ちしてお茶に誘って、自分もやりたいと訴えました。するとディレクターにデモテープを送ればいいといわれて、帰国してすぐに実行しました。

ビデオ審査の結果、スタンバイメンバーとして、モントリオールでトレーニングを受けることになりました。いろんな種目の候補生が50人くらい集められて4ケ月間みっちりと。技術もですが、表現力のトレーニングが多かったですね。その後、帰国して待機。欠員が出ないと呼ばれないので、ショーに出ることができたのは2年後です。

ラスベガスに行ったあと、ようやく夢の場所にたどりついたと3ケ月はうれしくてたまりませんでした。出演するパフォーマーは超一流で、シンクロ、飛び込み、体操、新体操などオリンピックのメダリストもいます。ダイナミックな演出に緊張感のある毎日。でも、それが日常になると新鮮味がなくなって、オーディエンスの気持ちを忘れてしまっていた。そのときに気づいたのは、私にとっては日常でも、観客にとって「シルク・ドゥ・ソレイユ」のこの日のステージは一生に一度かもしれないということ。どんな場所に行っても発見ってあるものですね。

現在、そして未来に向かって

シルク・ドゥ・ソレイユに出て、その後帰国して子どもをもち、夫とともに家族の時間を大切にするようになって、仕事も続けています。今、いろんなことに関心をもっています。シンクロや仕事を通して、様々な人に出会ってそれぞれの人生にふれることができて、人とのつながりを感じるのが楽しいのです。
2020年からは行動が制限される社会情勢になってしまいましたが、いつかリアルなショーをやりたいですね。アスリートのセカンドキャリアの難しさを感じているので、プロでやっていきたい人がそのチカラを生かせる場を作りたいですね。どういう形でできるのかわからないですが、切り拓いていきたいと思っています。

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