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解剖学者・養老孟司さんが愛猫に感謝を捧げる、新刊「まるありがとう」

解剖学者・養老孟司さんが愛猫に感謝を捧げる、新刊「まるありがとう」

解剖学者養老孟司さんの愛猫“まる”が、天国に旅立って間もなく1年が経とうという時、養老さんの代表的著書「バカの壁」(新潮新書)の発行部数が450万部に達したと知らされた。まるが養老家にやってきたのは、同書の刊行年と同じ2003年のことだった。

いうまでもなく「バカの壁」は空前のベストセラーとなり、出版業界の新書ブームに火を付けた。ただでさえ多忙であった養老さんのもとに、講演や執筆依頼が引きも切らない状況になった。まるはその間、超多忙となった養老さんを支え続けたのである。「まるありがとう」(西日本出版社)という本は、養老さんがあとがきで述べているように、かけがえのない相棒に対して贈る、感謝のための「墓碑銘」である。

養老孟司(ようろうたけし)プロフィール

養老孟司(ようろうたけし)プロフィール

1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。

幼少時代から親しむ昆虫採集と解剖学者としての視点から、自然環境から文明批評まで幅広く論じる。東大医学部教授時代に発表した「からだの見方」で1989年サントリー学芸賞を受賞。2003年刊行の「バカの壁」は450万部を超える大ベストセラーとなった。

 

 

 

 

“観察の人”、養老孟司

養老さんは、まるをよく「ものさし」と言っていた。それは、まるがペットとして飼い主を慰めるという役割を超えて、養老理論を支える重要なパートナーになっていた、ということである。養老さんは〝観察の人〟だ。「まるありがとう」の中でも述べられているが、すぐ傍らにいるまるを観察することによって、ご自身の生き方や思考の方向性さえも確かめていたふしがある。

養老さんの著書が人気を集めるのは、多くの人が実感しながら言葉にできなかったもやもやを、養老さんが見事に言い当てるからだろう。人々がつい見過ごしてしまうところに隠れている本質を見い出し、可視化することにおいて、養老さんは超越した力を持っている。
「バカの壁」で養老さんが指摘したのは、世の中に存在する、人と人とを遮断する心理的障壁のことである。人間社会には、そのような壁が数多く存在する。若者と老人は、なぜ話が合わないのか。同一の神様を信じているのに、米国とイスラム原理主義者はどうして喧嘩するのか。そもそも人間同士、なぜ分かり合えないのか…。

養老孟司

相手は理解する能力がないのではなく、分かろうとしない。あるいは分かりたくない。そのような人に対して、いくら〝正論〟を吐いても通じるはずがない。この心理的な「壁」の存在に気付き、せめて意識することができれば、別の対処が生まれる。どうせ分かり合えないのなら、相手が聞く耳を持つ状態になるまでは、くどくど言わずにじっと待ってみよう。ひとまず相手の立場を尊重してみよう。そうすれば、人間関係は自ずと次のステージに進めるはずである。

これはほんの一例に過ぎないが、養老さんはこのように、人々が普段あまり意識しない、気付かないようなことをフレームアップして理論化してしまう。養老さんがなぜこのような能力を持ち得たか。それは幼少時代から熱中している昆虫採集が大きく関係していると思う。

幼少期の昆虫観察から解剖学へ

養老孟司

集めた虫を標本にして、顕微鏡でじっと観察する。ぱっと見てそれは虫だが、じっと見つめていると、そこには微細な違いが見つかる。あるいは採れた場所や時季によって変化があり、そこにも気付く。観察することの大切さ、面白さを知る養老さんは、ごく自然な流れで解剖学の道へ進んだ。当然、ここでも観察である。

東大医学部に入って経験したことは違和感だらけで、動物好きだから生物学を研究する道も考えたそうだが、結局「解剖していたときが一番、気持ちが落ち着いた」と養老さんは言う。観察は、何の理屈も介在しない、実にシンプルな世界だ。目の前にある対象を、自分自身がどう評価して分析するか、ということだけ。違いを見ることはとても重要である。人間の身体でいえば、違いや変化を見落とすと命に関わる。病院へ行く理由も自分の身体に異変を感じたからであって、医師からはどう体調が変化したかをまず尋ねられる。 

観察力に長けた二人の著名人

虚心で観察することを重視して常人ならざる成果を上げた人に、プロ野球中日ドラゴンズの元監督、落合博満さんがいる。私は以前からひそかに、この方と養老さんには基本的な共通点があると感じていた。それは「自分の眼で観察して確かめた物事以外、あまり信用しない」という点においてである。

最近評判のノンフィクション「嫌われた監督」(鈴木忠平著、文芸春秋)に、象徴的なせりふが出てくる。著者は当時、スポーツ紙の記者だった。試合後、いつも素っ気なくあまりコメントしない落合さんが、番記者たちによくこう言っていたという。「お前ら、もっと野球を見ろ。見てりゃあ、俺のコメントなんかなくたって記事を書けるじゃねぇか――」。なぜかそこに引っ掛かりを感じた著者が、落合さんの言葉を実践しようと、当時伸び悩んでいた森野将彦選手のバッティング練習を見続けていた。そこに現れた落合さんが言う。「ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所から、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ」。
三冠王の落合さんが打撃の手本にしたのは、王貞治さんや野村克也さんではなく、ロッテ時代の先輩打者だった土肥健二さんだったというのは、有名な話である。しかも、あれこれアドバイスを求めたわけではなく、土肥さんのスイングをただじっと見つめて、自身の〝神主打法〟を完成させた。

スポーツ選手の連想でもう一人、思い出すのがプロゴルファーの青木功さんである。青木さんの妻はゴルフはまったくの素人だが、周囲にいるどんな優秀なプロコーチよりも、夫のスイングのほんのわずかな違いを見抜くそうだ。その理由について、青木さんは「好きなものには常に目が行くからじゃないかね」と照れずに言っていた。奥さまの青木さんに対する愛情の深さを感じさせる誠に心が温まるエピソードだが、この逸話も物事を真剣に観察することの大切さを物語っている。

青木さんのようなケースは別として、一般的には自然と耳に入ってくる雑音を排して、目の前の物事を虚心に観察するのは難しい。それは孤独を受け入れる、ということでもあるからだ。養老さんも孤独を愛する人だが、そういえば、まるも猫の中では特に孤独を愛するタイプだったと思う。養老さんに対談してもらいたい人はたくさんいるが、孤高の大打者、落合博満さんは筆頭格の一人である。

「まるありがとう」に秘められた養老孟司の人生観

養老さんは「まるありがとう」のまえがきで、自分が長年、物事を理屈にしてきたことについて「馬鹿なことをした」と言い、その理由をこう述べた。「理屈で説明しようがするまいが、物事が変わるわけではない。その意味では、理屈にすることは一種の虐待であって、何に対する虐待かというなら、『生きること』に対する虐待であろう。」
養老理論の柱の一つに「意識は物事を同じにし、感覚は物事の違いや変化を見分ける」という重要な視点がある。意識に支配された人間社会は、生き物としての感覚を鈍らせ、さまざまなひずみを生む。つまりそのことが、養老さんがいうところの「『生きること』に対する虐待」を指すのだと思う。

養老孟司

そのような本音を胸に秘めながら、物事を言葉にすることに腐心してきた養老さんは、物言わぬまるを「ものさし」として観察することによって生き物としてのわが身を見失わないようにしながら、さらにまるというフィルターを通して人間社会を観察していたのである。そのことが「まるありがとう」を、お読みいただければお分かりになるのではないだろうか。

「まるありがとう」に114カットも掲載されている養老さんの秘書の平井玲子さんの写真が素晴らしい。平井さんは養老さんとともに、まると深い信頼関係を築いていた。動物を撮影したことのある人は分かると思うが、生き物の自然な表情を撮るのはとても難しい。カメラを構えていた平井さんの存在もおそらく、まるがいつも目にしていた風光明媚な鎌倉の日常風景の中に、ごく自然に溶け込んでいたのだろう。

<文・写真(一部)提供:共同通信社 大津 薫> 

【書籍概要】

まるありがとう

  • タイトル まるありがとう
  • 著者 養老孟司
  • 発行 西日本出版社
  • 定価 1,200円(税抜)
  • 初版 2021年12月21日

◆本書に関する問合せ
西日本出版社 06-6338-3078
http://www.jimotonohon.com/

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