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落語の楽しみ方 2 ~笑福亭銀瓶~

落語の楽しみ方 2 ~笑福亭銀瓶~

落語家・笑福亭銀瓶さんのコラム、第二弾は自身の弟子入り体験エピソードです。落語家への第一歩をどんなふうに踏み出されたのか、師匠との出会いと当時の思いを振り返ります。(トップ写真:Photo by 佐藤 浩)

笑福亭銀瓶 プロフィール

1967年兵庫県神戸市生まれ。

19883月笑福亭鶴瓶に入門。2005年から韓国語による落語も始め、韓国各地で公演。201010月文化庁文化交流使として韓国に滞在。ソウル、釜山、済州で20公演、約3500人を動員する。舞台『焼肉ドラゴン』、NHK朝ドラ『あさが来た』『わろてんか』『まんぷく』『スカーレット』に出演するなど、役者としても活躍中。

 

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【HP笑福亭銀瓶公式HP

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落語の世界へ

入門するということ

Photo by 佐藤 浩

落語という話芸、文化が、日本に誕生して、約300年ちょっと経っています。
「人を笑わせたい。楽しませたい。それを職業にしたい。それで、ゴハンを食べていきたい。そうやって、生きていきたい」。
こんな風に考える人が、江戸時代から存在していたんですね。まあ、中には、「他のことをしたかったけど、それができないから、仕方なく芸人になった」という人もいたんでしょうが。でも、スゴイな。江戸時代なんかに、「俺は、喋って稼ぐ」てな考えを持っていたら、「この怠け者が!ちゃんと働け!」とか言われていたのかもしれませんよ。

いや、違います。つい最近まで、そうだったんですよ。「落語家になりたい」「芸人になりたい」なんて親に言ったら、「お前は何をアホなこと言うてンねん!」「この親不孝者!」「勘当や!」てなことになっていたんです。それが、普通だったんです。

えっ?「銀瓶さんが噺家になる時は、どうだったんですか?」って?

笑福亭銀瓶の場合

Photo by 佐藤 浩

あのですねぇ、それが意外なことに、両親は全く反対しなかったんです。1987年(昭和62年)の春、私が19歳の時。まだ、明石工業高等専門学校に在学中で、最終学年の5年生でした。両親を前に「笑福亭鶴瓶さんの弟子になる」と宣言すると(その時点では、まだ入門は決まっていませんでしたが)、流石に母は「なんでやの~」と心配そうでしたが、父は「お前の人生や。お前が決めた道を進みなさい」と、すんなりOKしてくれました。後から知ったんですが、親戚の間では「あいつは何をしてるんや!」と、かなり問題になっていたそうです。その親戚たちにも、父がきちんと説明してくれていたそうで、今では、親戚の皆さんも私のことを応援してくれています。そういうわけで、両親には感謝しています。

最近は、親が子どもを連れて来て、「◯◯師匠、ウチの息子を弟子にしてやってください」と頼むケースもあるそうですから。時代も変わりましたねぇ。

上方落語の第一次ブーム

Photo by 大西 二士男

今までに何度か『落語ブーム』というモノが到来しました。東京のことはよく知りませんが、上方落語ですと、1970年代初頭が最初のブームだったと言われています。当時、笑福亭仁鶴、桂三枝(現・六代桂文枝)の2人が、上方落語の若きスターとして、テレビ・ラジオ・舞台で、爆発的な人気を呼びました。関西の多数の大学に落語研究会、いわゆる『落研(おちけん)』が誕生したのもこの頃です。

落語に興味を持つ若者の中から、「プロになりたい」という夢を抱く人たちが生まれ、彼らの多くが、『上方落語・四天王』と呼ばれる、六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春團治、三代目桂小文枝(後の五代目桂文枝)に入門します。この四天王が、戦後、衰退した上方落語の復活に尽力したのです。4人の師匠のもとで、笑福亭仁鶴、桂三枝(現・六代桂文枝)、桂福團治、桂春蝶(先代)、桂枝雀、桂ざこば、笑福亭鶴光、桂文珍など多くの上方噺家が育てられました。私の師匠、笑福亭鶴瓶もその一人です。

上方落語第二次ブーム

Photo by 佐藤 浩

その次のブームは、2006 9月、天満天神繁昌亭のオープンによってもたらされます。何しろ、戦後初の上方落語専門定席の誕生ですから、全国的にも注目が集まり、今まで生の落語を聴いたことがないという新しいお客様がたくさんお越しくださり、それとともに、噺家への入門希望者も増えました。
さらに、2007年秋から2008年春まで放送された、NHKの朝ドラ『ちりとてちん』で、そのブームに拍車がかかります。お客様の数はもちろん、噺家の人数も増えていきました。

戦後間もない頃、落語家の人数が極端に減り、「上方落語は滅んだ」とまで言われた時期もありましたが、前述した『上方落語・四天王』を筆頭とする諸先輩方、そして、落語文化を愛する多くのお客様方のお蔭で、今では、上方落語家の人数は、250人を超えました。
かつて、世間全体に何となく存在していた『芸人、噺家になるということに対するマイナスイメージ』が、世の中の流れ、時代の変化とともに、徐々に薄れていき、今では、逆にプラスイメージがあるようにも感じます。
それはそれで良いことですが、しかし、我々、現代の噺家は、そういうことに甘えず、流されず、常に『芸の研鑽』『日々の精進』を忘れてはいけないのです。それを怠るということは、辛い時代を乗り越えてこられた先達たちへの冒涜になると考えます。

いざ、笑福亭鶴瓶師匠に入門

弟子入りするために

Photo by 佐藤 浩

「どうやって、師匠に弟子入りをお願いするんですか?」と聞かれることがあります。これは、人それぞれ、様々です。
「この人の弟子になりたい」と思ったら、これはもう、ちょっと恋愛感情に近いかもしれませんね。
その人が出演する落語会に足繁く通ったり、テレビ局やラジオ局の前で出待ちをしたり、中には、自宅を突き止めて、家の前で立っていることもあります。完全にストーカーです。
とにかく、直接、本人にお願いするしかありません。

師匠 笑福亭鶴瓶との初対面

Photo by 佐藤 浩

私の場合、ラジオ局の前で待っていました。1987年(昭和62年)3 22日か29日だったはずです。ちょっと記憶が定かではないのですが、とにかく、3月の終わりの日曜日だったんです。これは間違いありません。当時、私の師匠、笑福亭鶴瓶がラジオ大阪で日曜日の深夜に『ぬかるみの世界』という生放送の番組に出演していました。その1ヶ月くらい前の放送で、師匠が「僕はいつも、11時くらいに局に入ります」とおっしゃったので、「そうか!11時前から待っていたら、鶴瓶さんに会えるんやな」と思い、確か、1030分くらいから立っていました。今は、JR弁天町駅の近く(大阪市港区)にラジオ大阪がありますが、当時は、西梅田にありました。ちょうど今のブリーゼブリーゼの近くです。今でもあの辺りに行くと、「あぁ、ここがスタート地点やったんやなぁ」と懐かしく感じます。

大好きな佐野元春さんのアルバム『No Damage』をウォークマン(もちろん、カセットテープ)で聴きながら待っていました。季節は3月末、夜11時前となると、冷え込んできます。でも、全く寒さは感じませんでした。むしろ、ドキドキして、身体が熱いくらい。「鶴瓶さん、まだかなぁ」と思う私の耳の中では、佐野元春さんの名曲『SOMEDAY』が流れていました。ちょうどその時、四つ橋筋の角を曲がって、師匠がこちらに向かって歩いて来られる姿が見えたのです。

私は、背丈と同じ高さくらいの植え込みの横にいました。隠れるつもりはなかったのですが、師匠の位置からは見えにくかったのでしょう。また、私も緊張からか、少し焦っていました。師匠が近くまで来られた時、植え込みの横からスッと出て、「すみません」と声を掛けたのです。「オッ!」と少し驚かれた師匠。「どないしたん?」「お忙しいところ大変申し訳ございません。ぜひとも、聞いて頂きたいことがございまして」「あぁ、そう。ほな、おいで」。なんと、すんなりとラジオ大阪の中へ。

鶴瓶師匠に弟子入り直談判

Photo by 佐藤 浩

ロビーで、自分の氏素性を明かした後、「弟子にしてください」とお願いする私に、師匠は優しい口調でこうおっしゃいました。
「僕には、今、弟子が5人おンねん。そやから、弟子を取る気はないねん。それに、こんな世界、食べていかれへんよ。キミ、明石高専みたいなエエ学校に行ってるンやったら、普通に就職したほうがエエよ」。
「そうですか」と肩を落とした私。「それでも、弟子にしてください!」とすがりつくような性格じゃないんです。なんか、『ええカッコしい』というか、そういうところがあるんですよね。それは、今でも。

「キミ、家はどこ?」「神戸です」「そうか。ほな、ラジオ、最後まで見学していき。僕の家は西宮やから、帰りはタクシーで送ってあげるわ」「いいんですか?」「うん」
「初めて会った見ず知らずの僕に、こんな風にしてくれはるやなんて、やっぱり、鶴瓶さんは、テレビやラジオで感じた通りの優しい人なんやなぁ」。私は感激しながら、スタッフの皆さんがお仕事をされている部屋の隅で立っていました。スピーカーからは生放送の音声が聞こえてきます。

まさかの展開、鶴瓶師匠と二人でタクシーに

Photo by 佐藤 浩

番組が終わり、午前3時頃、師匠と一緒にタクシーに乗りました。どんな話をしたのか、ほとんど忘れてしまったのですが、ただ一つ、覚えている会話があります。
「キミ、本は読むか?」「はい。2年前(17歳)くらいから、やっと読書に目覚めました」「何が好きや?」「司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』です。もう、10回くらい繰り返して読みました」「あぁ、司馬遼太郎さんかぁ。エエよねぇ。僕は『故郷忘じがたく候』っていう作品が好きや。キミもいっぺん、読んでみ」「はい」。あっという間に、タクシーは西宮市にある師匠のご自宅前に。私はそのまま、神戸まで帰らせて頂くのです。

私は、「弟子にはしてもらえないけど、ちゃんと自分の想いを伝えて、鶴瓶さんと話ができた。もう、これでエエやないか。この先どうするかは、また考えよう」と思い、車から降り、師匠に「今日は本当にありがとうございます」とお礼を言いました。すると、師匠が一言。「キミと、もういっぺん会いたいなぁ」。そのまま師匠は、お家の中に入って行かれました。

「えっ?もういっぺん会いたい?もしかしたら、弟子に取ってくれはるンかなぁ?」。淡い期待を抱きながら、神戸の自宅へ。

いよいよ弟子入り

Photo by 佐藤 浩

それから4ヶ月後の夏休み、私は再び、師匠に会いに行きました。

「気持ちは変わっていません。弟子にしてください」「分かった。卒業したら、弟子にしてあげるわ」
とまあ、こんな具合に、私の場合、弟子にして頂くにあたって、それほど苦労はしていません。しかし、中には、何回も何回も通ったり、手紙を何通も出したり、入門が許されるまでに、とても時間がかかった人もいます。また、どれだけアタックしても、弟子にして頂けないケースもあります。
これはもう、『運と縁とタイミング』としか言いようがありません。

たくさんの入門志願者がいる中で、師匠が、「こいつは弟子にしよう」、「この子は断ろう」と判断する基準は、その師匠、それぞれです。私はたまたま弟子にして頂けました。もし、違う時期にお願いに行っていたら、取って頂けなかったかもしれません。また、別の師匠に入門志願をしていたら、断られていたのかもしれません。全ては『運と縁とタイミング』です。しかし、だからこそ、弟子にして頂けたことに感謝しなければならないのです。弟子に取るということは、一人の人間の『人生を預かる』ということなのですから。

結び

Photo by 大西 二士男

と、偉そうなことを書いていますが、こういうことを私自身(弟子全員?)が心底、理解したのは、噺家になって何年も経ってからでした。師匠の愛やありがたさが分かるまでには、それなりの時間が必要でした。それが、師弟関係なのでしょう。私は、「あの人を師匠に選んで良かった」と心の底から感じています。そして、弟子入りを許してくださったことに感謝しています。その想いは、噺家としてのキャリアを積めば積むほど、大きくなっています。私だけでなく、多くの噺家が同じ気持ちのはずです。
さて、入門という名の第一関門を過ぎると、次に待っているのは『修業生活』。

「落語家の修業って、どんなことするの?」と、不思議に思っている貴方。この続きは、また改めて。

笑福亭銀瓶 プロフィール・著書情報

1967年 10 15日生まれ、兵庫県神戸市出身。
1988年 3月、国立明石工業高等専門学校・電気工学科を卒業。
1988年 3 28日、笑福亭鶴瓶に入門。
2005年から韓国語による落語も手がけ、韓国各地で公演を継続。
2008年、繁昌亭奨励賞受賞。
2009年、繁昌亭大賞受賞。
2010年 10月、文化庁文化交流使として韓国に1ヶ月間滞在し、ソウル、釜山、済州で20公演を行う。
2017年、文化庁芸術祭・大衆芸能部門・優秀賞受賞。

舞台『焼肉ドラゴン』、NHK朝ドラ『あさが来た』『わろてんか』『まんぷく』『スカーレット』に出演するなど、役者としても活動中。

【著書】銀瓶人語vol.1vol.3西日本出版社  / TEL06-6338-3078

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